宇治市槇島町は住宅や工場が多く、その反面田園風景も広がる地域ですが、かつて槇島城という城がありました。
城跡にはふさわしくない住宅地内の児童公園に記念碑と看板があったのでちょっと調べてみました。
ご存知のようにかつて宇治には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島でした。この地には真木島氏という豪族が根を張り、城郭を築いてました。それが槇島城で鎌倉時代の承久3年(1221年)長瀬左衛門によって築かれたと云われています。
この辺は元々中洲になっていたと考えられており、槇島の地は宇治川の渡河地点であったことから京への拠点として重要視されたため、しばしば合戦の舞台となっていたようです。
鎌倉時代の承久3年(1221年)に起こった承久の乱では後鳥羽上皇方が長瀬左衛門の軍勢500余名を槇島城守備に配置。皇権回復のため討幕の兵を挙げたが鎌倉幕府により鎮圧。
又、室町時代の明応8年(1499年)の宇治・槇島の合戦では時の権力者細川政元の攻撃を受けて落城し、細川政元が一時居城として使用。
そして天正元年(1573年)織田信長に反旗を翻した15代将軍足利義昭が京都の二条城で挙兵したが、信長の軍勢がすぐに二条城を包囲したので、この時は正親町天皇の勅を得て和議を結び、信長が包囲を解き岐阜に戻ると同時に、再び同年義昭がこの槇島城で挙兵。
当時幕府奉行衆であった真木島昭光を頼り3700人の兵と共に槇島城へ籠城します。
それを受け信長も再び即座に入洛、城を包囲して義昭を屈服させました(槇島城の戦い)。
その後、足利義昭は河内の若江城へ退去させられ、237年間続いた室町幕府は名実ともに滅びました。
つまり槇島は室町幕府滅亡の地だったんですね。
槇島城は周囲を池に囲まれた戦略的拠点・水城でしたが、その後、豊臣秀吉による伏見城築城の際に宇治川を付け替える工事のため石垣も「槇島堤」に利用され、城跡も残っていないとのことです。
身近な普通の住宅地にそんなゆかりの場所があるとは少し驚きました。
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