前回の①では昔から洪水を繰り返してきた巨椋池が明治38年に完成した琵琶湖の南郷洗堰により、長年果たしていた遊水池としての役割がなくなったことを述べました。
ところが、長い水害の歴史から解放された巨椋池でしたが、思ってもみない新たな災難が発生します。独立した池となり水の循環を失った巨椋池に、周辺から生活廃水や農業排水が流れ込むことで水質が急激に悪化。蚊が大量発生し、風土病とも言われたマラリアまで発生しました。
昭和2年には、巨椋池沿岸19か村がマラリア流行指定地とされます。又、巨椋池の水位が低下したことで池の魚類は減少、漁獲量も減り、農業者にとっても漁業者にとっても巨椋池での生活は困難になりつつありました。
こうした中、巨椋池では干拓への機運が日増しに高まっていきます。干拓の構想は明治初期からありましたが、沿岸部の利権者の調整が難しく漁業権補償問題など解決すべき問題が多すぎました。
そして昭和7年、ついに国内初の国営干拓事業として巨椋池干拓の実施が決定され、翌年から事業が着工されました。池の水を汲み出すために宇治川に向けて排水機場をつくることから始められ、排水ポンプ10台によって池の底であった約800haが陸地になり、そのうち634haが新しい農地として生まれ変わりました。併せて周囲の農地1260haの用排水改良も行われ、干拓田には耕作のための道路や用排水路が整備され、昭和16年に事業完了、巨椋池は整然と区画された農地として生まれ変わりました。
戦前戦後の食料増産時代には、この農地だけで4500トンもの収穫を記録し、巨椋池に新たに生れた農地は、日本の食料事情に大きな貢献を果たしました。
現在では、都市近郊という立地を活かし、米はもちろん野菜や花きなどの生産を行う一大農業地帯として成長を続けています。
私もたまにこの干拓地を走りますが、天気の良い日は長閑で自然に満ちた景色が広がります。
珍しい水鳥も多く、レンズを向ける人々もよく見かけます。
昔から多くの人々の苦難の末に出来上がったこの穀倉地帯を大切に守ってゆきたいですね。
余談ですが、干拓と埋め立ては違います。
干拓→水面、低湿地などを堤防で締め切り、排水して新たに農用地を造ることをいいます。干拓により造成された土地を干拓地といいます。
埋め立て →水面に土砂を運び入れ地盤を高めて新たに陸地を造ることをいいます。
参照・引用 (一社)農業農村整備情報総合センター
京都府山城広域振興局
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